縦乗りがもたらす心理的問題
縦乗りを克服するに当たって直面する精神的問題について説明します。自分自身が縦乗りと向き合う上で直面する心理的問題、そして他者を指導するに当たって指導者と学習者が直面する指導上心理的問題、そして縦乗りと向き合った後で社会と向き合った時に直面する社会的問題について説明します。
縦乗りの一方向性について
ここで縦乗りの一方向性 についてお話したいと思います。横乗りの人が縦乗りの人のリズム感覚を模倣しようとする時、数年程度練習すればある程度は習得することが出来ます。しかし縦乗りの人が横乗りのリズム感覚を模倣しようとすると最低でも10年以上、場合によっては20年以上かけても習得できないこともあります。 このことを縦乗りの一方向性 と呼びます。
縦乗りと横乗りはリズム解釈のルール自体が異なるため、コミュニケーションを取ることができません。 一緒に言語を話そうとする時、或いは一緒に音楽を演奏しようとする時 ─── 必ず一方が自分のリズム感を封印し相手のリズム感に同調する必要があります。ところが、横乗りの人は縦乗りに簡単に合わせることができるのに、縦乗りの人は横乗りの人に合わせること容易ではありません。これが 縦乗りの一方向性 です。
横乗りの人は、弱拍が先行する感覚を使わないようにすることで強拍が先行する状態をシミュレートすることが出来ます。しかし縦乗りの人は、強拍が先行する感覚しか持たない為、新たに練習することで弱拍が先行する感覚を作り出す必要性が生じます。
日本外の世界の大半の言語は横乗りです。 これを音韻学的に言うと『世界中の殆どの言語は、シラブル拍リズムまたはストレス拍リズムというリズム構造を持っている』ということができます。 つまり世界中の音楽は横乗りが基盤になったコミュニケーション方法が主流なのです。 世界的には縦乗り…つまりモーラ拍リズムをリズム構造として持つ言語はとても少ないのです。一説によると完全なモーラ拍リズム言語は日本語しかないという説もあります。
みんなが横乗りで演奏している時に、「私は縦乗りから変えない」と主張した場合、その場にいる人全員 ─── その場にいる人が2名であれば2名が ─── その場にいる人が1000人ならば1000人全員が、縦乗りに合わせなければいけないということを意味します。
同じことは日本国内でも起こります。何故ならば日本各地の方言は必ずしもモーラ拍リズムで統一されているわけではないからです。実は日本語の方言は、東に行くほどストレス拍リズムが強くなるという説があります。発音の省略が多く早口な江戸弁をはじめ、東北弁の多くは、標準的な日本語とことなり、ストレス拍言語に特徴的な発音の短縮が多く見られます。また関東・東北の多くの民謡は、完全な縦乗りではなく、しばしば長い弱起が見られます。
多様性への対応力は、豊かさの大切な基盤でもあります。広い世界に出ていけば出ていくほど、異質な人々と激しくぶつかりあう結果となるでしょう。遠く離れれば離れるほど横乗りというリズム感覚が主流になり、縦乗りというイデオロギーが否定される機会は増えるでしょう。縦乗りとは本質的にイデオロギー的孤独と言えます。
広い社会で自由に行動するためには、縦乗りから横乗りに、横乗りから縦乗りに、自由に切り替えることが必要になります。 縦乗りの人が縦乗りを克服することは、或いは横乗りの人が横乗りを克服することは、広い社会に出る時に武器になるのです。
しかし、ここでこの縦乗りの一方向性 が巨大な障害となって立ちはだかるのです。
縦乗りの一方向性 は技術的な問題だけでなく精神的な問題を引き起こします。 これまで 縦乗りの一方向性 を克服する為に必要な理論や練習方法などの技術的な側面を御説明致しました。 しかしこれらの問題に取り組む以前の問題として、精神的な問題が生じ、問題の認識自体が難しくなってしまうために、そもそも 縦乗りの一方向性 に取り組むこと自体が難しいという問題が生じます。
これらの問題に対して、心理的防衛機制と十牛図という2つの側面から理解を深めて行きます。
縦乗りと防衛機制
一方向性がもたらす心理的防衛機制
縦乗りという大きな障壁の存在に気付いた人が取るリアクションは、様々です。
勿論、縦乗りを直す必要はありません。縦乗りは欠点ではありません。縦乗りを辞めることを強制する理由は存在しないのです。 ─── リズム道 は飽くまでも、他者の文化に対する敬意と尊重の手段のひとつであり、自分と他者との違いをはっきりと認識した上で、ここで敢えて横乗りに打って出る決意をし、どうすれば横乗りを自分のアイデンティティとして取り込むことが出来るのかという問題と取り組む人に対しての、明確な解答を提供することが主目的にあります。縦乗りとぶつかった時、前に進むか留まるかを決めるのは皆様自分自身でしかありえません。
縦乗りから横乗りに切り替えるという問題に対して向き合った時、人は絶望します。
縦乗りの向こうにある絶対的な欲望の世界と、縦乗りの障壁としての絶望的な大きさの対比は、直視しがたい要素があります。ここで人はしばしば自分の心の安定を守る為に無意識のうちに様々な心理的機制が生じます。 自分自身の心に生じた心理機制を自覚した上で真っ直ぐに向き合っていく為に、この心理機制についてよく知ることは大切です。
しばしば縦乗りを見た人は自問します ─── そもそも何故縦乗りに気付かなければならないのでしょうか。
- 何故、縦乗りではいけないのか
- 何故、縦乗りに気付く必要があるのか
- 何故、縦乗りと向き合わなければいけないのか
- 何故、縦乗りを知る必要があるのか
- 何故、縦乗りを直さなければいけないのか
- 何故、縦乗りと向き合わなければいけないのか
- 何故、横乗りを知る必要があるのか
- 何故、横乗りと仲良くする必要があるのか
ここで最も大切なことは、「実は彼は、縦乗りを克服しなくていいとは思っていない」ということです。それどころか既に縦乗りに気付いており、何度も縦乗りを克服する為に格闘しその難しさとぶつかって、打ちひしがれて苦しんでいます。 縦乗りに気付けば気付くほど、その解決の難しさと直面し、絶望する。絶望する恐怖からその困難の直視を避けて、責任転嫁しようとします。つまり合理化しようとする。
ここで彼の行動を「縦乗り問題を軽視している」と解釈し、「縦乗りの問題の重要性をわからせてやろう」とすればするほど、彼は強く拒絶します。
つまり心理機制をよく知ることは自分自身を理解するためにも他者を理解する上ためにも大切なことといえます。
縦乗りとは何か
縦乗りとは
縦乗りの問題
縦乗りの問題は大きく分けて2つあります。
- まず日本語を母国語とする人はシンコペーションを認識すること自体に大きな困難があること。
- 日本社会でシンコペーションを習得しようとすると、リズムを習得する困難さと向き合う以上に、大きな社会的圧力と向き合う必要があること。
縦乗りの技術的問題
縦乗りと横乗りは同時に演奏できない。
横乗り大音量錯覚について
- 縦乗りの人々にとって横乗りは大音量に聴こえる。
- → 音ずれが音の分離をはっきりさせる。
- → 未体験の音の際立ちに衝撃を受ける縦乗りの人々
- → 「音が大きすぎる!!!!」というリアクション
- 縦乗りセッション社会で、横乗りが排除される構造を生み出す。
縦乗り防衛機制について
- 誰もがグルーヴしたいと思っています!
- →しかし日本語の持つ制約から日本語を母国語とする人は外国のグルーヴを演奏することに大きな困難を伴います。
- → 誰もが海外の音楽に強い憧れを持ち、音楽を志します。そして誰もが音楽に対して人生を賭して莫大な犠牲を払っています。しかし長年の苦労ののちに、実は真の音楽が全く手に入らないものだと気付いた時、彼は精神崩壊の危機にさらされます。
- → そこで日本人独特なリアクションが生まれます。
- → これが縦乗りゴーマニズムです。
縦乗りゴーマニズムとは
- 縦乗りというリズム自体は問題ではない点に注意。
- 横乗りというリズムが手に入らないと気付いたときに、妬み嫉みというネガティブな感情が生まれる。
- 絶望を直視する事を回避する為にあらゆる心理的防衛機制が働きます。
- それがしばしば、グルーヴを志す人への攻撃となって表出します。
縦乗り防衛機制の例
抑圧
不快・苦痛の感情を意識に受け入れがたく、無意識のうちに忘れる・気づかないようにする。これが意図的・意識的である場合は、抑制という。
「えっ?縦乗りなんか気にしてるの、岡だけじゃない?」
否認
現実を自分が知覚していながら、意識から排除して認めないこと苦痛に対して「大したことはない」と思う。
「縦乗りなんて、別に大した問題じゃないですよね?」
退行
早期の発達段階へ戻ること。子ども返り。
「ふざけんなよ!このやろう!(演奏中いきなり怒鳴る)」
転移
特定の人に向けていた感情を、よく似た人(精神分析の治療者)に置き換える。陽性転移は、好意・依存、陰性転移は、敵意や嫌悪の感情を持つ。
「いやー岡さんの演奏、ウェスモンゴメリみたいですね!」「いやー岡さんの言ってること、ジョージ大塚と同じですよね。」
投影
相手に向けての感情を自分のものとして受け止めがたいため、相手が自分に向けていると思う。
「なんでそうやって縦乗りを否定するんですか!?」
反動形成
本心とは逆の言動をする。弱者のつっぱり。
「いや俺、別に横乗りになりたいと思っていないし。」
昇華
反社会的な欲求を、社会的に適応の高いものに置き換える。
「横乗りをマスターしたくて今でも毎日メトロノーム練習続けています。」
補償
劣等感を他の方向で補う。「運動で負けたら、勉強で勝て」
「私この間、ギブソンのビンテージ買ったんですよ!◯◯万円もしたんです!」
合理化
一見理論的であるかのように装うが、実は不都合な現実を歪めたり、都合のよい現実を取り上げて、自分の欲求や感情を正当化する(責任転嫁)。
「岡さんは、そうやって縦乗りを理論的に説明しているようでいて、結局自分自身の劣等感を補償しているだけですよ。その証拠に誰も岡さんに同意している人がいないじゃないですか。現実を直視出来ていないのはどっちなんですか?」
「またリズム警察ですかwww」
「リズムおじさんwww」
縦乗りゴーマニズムへの対応の難しさ
- 縦乗りゴーマニズムはしばしば、集団ヒステリ的な様相を帯びて、対個人への集団攻撃という現象につながりやすい。
- → 日本社会が持ついじめの構造を持ち始める。
- → 結果的に、セッション社会でグルーヴを志すどころか、リズムについての話題を出すだけで、過敏な反応を受けやすい。
縦乗りゴーマニズムの問題点
- 縦乗りゴーマニズムと遭遇することを恐れる。
- → リズムの話題に触れることが難しい。
- → 横乗りグルーヴを目指している人同士が知り合う機会がない。
縦乗りに対するあるべき対応
- 縦乗りと横乗りのバランスを取る
縦乗りと横乗りのバランスを考える
- バイクを作る
- 確実さと安定を重んずる
- → 縦乗り
- 確実さと安定を重んずる
- バイクに乗る
- 不安定さがもたらす自由を楽しむ
- →横乗り#### 現代日本人として完全な横乗りは破滅を意味する
- 不安定さがもたらす自由を楽しむ
- 実は、縦乗りを捨てれば横乗りになるのは容易い。
- むしろ、いつでも好きなときに横乗りに切り替えることの出来る能力を獲得する。
- そのために、横乗りを縦乗りで再解釈し、切り替える為のトリガとする。
縦乗りの良さを横乗りで伝える
- 演歌・アニソン・ゲーム音楽等々…世界は日本を求めている。
- → しかし縦乗りは横乗りの人々にとって理解不能。
- → 横乗りを習得し、縦乗りを横乗りに翻訳する。
縦乗りの良さを横乗りで伝える
- オフビートメトロノーム練習
- オフビートカウント練習
縦乗りと十牛図
自分自身の縦乗りと気付くまでの道は、長く険しくそして辛い道です。しかし縦乗りを良く知り、縦乗りを克服した先にあるものは、何物にも代えがたい価値があります。 それは日本の良さと東アジアの良さ、東南アジアの良さ、そして欧米文化との良さ、そしてアフリカ文化との良さ、そして全世界の文化との良さを調和する為の長い道のりということも出来ます。 そのすばらしさが全て「縦乗り」という巨大な蓋によって覆い隠されているのです。
この巨大な蓋には大切な役割があります。この蓋がなければ日本は日本であることが出来ません。この蓋は日本を守る大切な防御壁となっている ─── と同時にこの蓋が日本のすばらしさを届ける弊害にもなっているのです。
この蓋の存在を認識できるようになり、そしてそこにあることに気付き、そしてそれを自由に開け放ったり閉じたりすることが出来るようになるためには、長い修練が必要です。
この長い道のりは、禅の十牛図 で説明される道程にとても良く似ています。そこでここでは十牛図を例にとって、この縦乗りに気付くまでの長い道のりを御説明したいと思います。
自分自身の縦乗りに気付かない
歩いても縦乗り、走っても縦乗り、立っても縦乗り、座っても縦乗り、踊っても縦乗り、手を挙げても、頭を挙げても、手を下げても、頭を下げても、怒っても縦乗り、笑っても縦乗り、何をやっても縦乗り ───日本人の動作には、客観的に見ると即座にそれとわかるはっきりとした特徴があります。
しかし日本人はこの特徴に気付く事が出来ません。何故なら比較対象を持たないからです。
縦乗りに気付く難しさ
縦乗りの人同士でコミュニケーションをしていても、その縦乗りという特徴に気付きません。他者が比較対象として機能しないからです。人は横乗りの人と出会って初めて、そこで縦乗りの存在に気付くことが出来ます。
この横乗りの人と出会った時、彼は、単に比較対象を持つことが出来たに過ぎません。ここで必ずしも縦乗りの存在に気付くとは限らないのです。 そこから彼は横乗りという他者とぶつかりあい、そのぶつかりあいのなかで自分の違いに気付き、更にその自分自身の違いとぶつかりあい、そのぶつかりあっているものが相手の存在ではなく、自分自身の中に潜む自分自身の特質だったことに気付いて、敵が自分自身の中にいることを認識し、その敵と真摯に向き合う覚悟が出来なければ、その縦乗りの存在に気付くことができません。
─── これは仏門の修行に相当する非常に高い困難が伴う精神作業です。十年以上に渡って、その哲学的な差異と真摯に向かいあって自己を探求する事は決して容易なことではありません。
ここではこの縦乗りという自分自身の中に潜む敵と向かい合う為の武器として、これまでに御紹介したリズム理論を駆使し、縦乗りが起こるメカニズムについて説明します。
その為にまず禅思想の十牛図を御紹介致します。十牛図は、縦乗りの人が自分自身の縦乗りに気付くまでの道程と多くの類似点があります。十牛図の意味を知ることは、縦乗りと向き合う為の大切な武器のひとつです。
縦乗り克服の道程と十牛図
縦乗りを理解し克服する過程は、自分自身の認識と向き合ってそれを変容していく過程そのものといえます。認識そのものを変容していくわけですから、変容するまえにはその問題自体が見えいない状態にあります。そこから認識が変容することで問題の存在に気付いて、そこから更に認識が変容し、更に新しい問題の存在に気付いていくという自己参照性問題という高次哲学的な問題が含まれています。
- 縦乗りの存在自体に全く気付いていない。
- 縦乗りの存在には気付いたが違いがあるかまではつかみきれない。
- 縦乗りに違いがあることには気付いたが、何が違うかまではつかみきれない。
- 縦乗りとそうでないものの違いを指摘出来る、どこが違うかまではわからない。
- 縦乗りとそうでないもののどこが違うかはわかったが、何故違うかまではわからない。
- 縦乗りとそうでないものを比べて何故違うかわかったが、全体像はつかみきれていない。
- 自分が全ての違いを把握していないということ自体に気付いていない。
- 単独で横乗りで演奏できるようになったが、縦乗り音が聴こえるとつられて縦乗りに戻ってしまう。
- 縦乗りに戻ってしまったことに気付いていない。
- 違いは聞き取れていても、自分自身の身体を動かして非縦乗りの動作を実演出来ない。
- 自分の動作が縦乗りになっていることに気付いていない。
- 自分の動作が縦乗りになっていることに気付いていても縦乗りを直せない。
- 自分の動作が縦乗りになっていることに気付いていても縦乗りを直せるが全ては直せない。
- 意識しないと縦乗り動作を抑制出来ない。
- 意識しないと縦乗りに戻ってしまう。
- 意識しなくても縦乗りに戻らないで横乗りを維持できる。
- 何も意識せずに横乗りを維持できる。
- どんなときでも即座に縦乗りと横乗りを自由自在に切り替えることが出来る。
─── この過程は中国禅思想の『十牛図』で非常にわかりやすく表されています。
十牛図
十牛図とは、禅思想で使われる悟りに到るまでの道程を見える化した10の図のことを指します。 十牛図には数多くの版が存在することが知られており、最も広く知られている版は、宋代の郭安の十牛図と普明禅師の十牛図だと考えられています。
牛飼図は通常、詩と絵からなり、詩自体に短い序文が付いていることもあります。宋代以降、このような作品は数多く作られ、その中でも特に注目すべき3作が「清居」「郭安」「子徳」です。清居の作品は5図、郭安の作品は10図、子徳の作品は6図で、これらの作品の中で郭安の作品が最も完備していると考えられています。
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十牛図の意味
以下で説明する十牛図は中国の仏教の学校 学山禅院 の十牛図解説の抄訳です。
『十牛図』は、宋代の禅僧・廓庵禅師によってまとめられた修行の十段階を象徴的に描いた図と詩文です。牛は「本心(仏性)」を象徴しており、牛を探す旅を通して、人間が本来持っている仏性を自覚し、悟りに至るまでの道のりを表現しています。
この十段階は、単なる順番的な修行ではなく、あらゆる瞬間に悟りのチャンスがあることを示しています。文字や形式にとらわれず、心の本質に立ち返ることが重要であると説いています。
1. 尋牛(じんぎゅう)

- 仏性を象徴する「牛」を探し求めて修行を始めたが、まだその牛を見つけることができない状態です。人間は本来仏性を備えているものの、それを忘れてしまい、煩悩や分別の世界に陥って真実の自己から遠ざかっています。
迷いの中で、自分の本心を探し求めている段階です。牛(=本心)は実は常にそこにあるのですが、私たちはそれに気づかず、外に求め続けます。仏法に出会い、ようやく「本心を探す」必要性に目覚めます。
2. 見跡(けんせき)

- 経典や師の教えを手がかりとして仏性を探そうとしても、依然として煩悩や分別の世界から抜け出すことができず、牛そのものではなく牛の足跡しか見えていない状態です。
ようやく牛の足跡(=本心の痕跡)を見つけます。日常生活の中の見聞触覚や感情のすべてに、本心の働きが現れていることに気づき始めます。ですが、多くの人はまだ文字や形式に執着し、真実の自心を見失っています。
3. 見牛(けんぎゅう)

- 修行を積み重ねていくうちに、ついに牛の姿を実際に目の当たりにする段階です。真実の自己、仏性を実感し始める境地です。
牛の姿がはっきりと見えてきます。つまり、仏性や本心を直接感じ始める段階です。六根(目・耳・鼻・舌・身・意)を通じて、あらゆる現象の中に仏性の働きを見出します。
4. 得牛(とくぎゅう)

- 牛(仏性)を一度捉えたとしても、それを完全にコントロールするのは容易ではなく、時には逃げ出してしまうこともあるでしょう。修行の難しさと忍耐の必要性を象徴しています。
ようやく牛を捕まえることができました。悟りの感覚が明確になりますが、まだ心は安定しておらず、妄想や習気(くせ)が強く、修行の努力が必要です。
5. 牧牛(ぼくぎゅう)

- 牛をしっかりと飼いならす段階を表します。自分の本性(仏性)を確かに手に入れたら、それを失わないよう注意深く見守り制御する必要があります。修行が深まるにつれ牛は徐々に従順になります。
牛をしっかりと調教していく段階です。日常生活の中で心を見守り、妄想が起きたらすぐに気づくようにします。この「牧牛」の修行が、実際の修行の核心です。
6. 騎牛帰家(きぎゅうきか)

- 牛と牧童(修行者)が完全に一体化し、心の平安が得られた状態を表します。もはや牛を制御する必要はなくなり本来あるべき場所へと穏やかに帰ってきたことを表します。
牛に乗って、ゆったりと家に帰る段階です。心の安定と解放感があり、無理せずとも心が本質と調和しています。悟りの余韻の中で、自然体で生きることができるようになります。
7. 忘牛存人(ぼうぎゅうそんじん)

- 心の本来の場所に戻った修行者は、牛を捉えたことすら忘れてしまう状態を表しています。この段階では、牛(仏性)は自然なものとなり、特別な意識の対象ではなくなります。
牛(仏性)を忘れて、人(主体)だけが残ります。すでに牛は完全に調伏され、意識せずとも心は乱れず、平常心で生活できるようになります。悟りへの執着も消え、「無為自然」の境地に至ります。
8. 人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)

- 牛を捉えようとした理由も、牛を捉えたことも、そしてその行為そのものも忘れ去られた状態を表します。主体と対象の区別が消え、忘れること自体もない完全な無我・無心の境地を表します。
人も牛も共に忘れ去られる段階です。修行の対象や主体すら意識から消え、「無心」「無我」の状態となります。知や言葉の働きも超えており、言葉では言い表せない悟りの深みに達します。
9. 返本還源(へんぽんかんげん)

- あらゆる執着や分別が消え去った清浄無垢な境地に戻った状態を表します。ありのままの世界をあるがままに受け入れ、真実の自己と世界の根源的な姿を認識する状態になったことを示しています。
悟りを得た後、さらに「本来のあり方」へと帰っていきます。悟った人は、世俗にとらわれず、また悟りにもとらわれません。ただ静かに、自然のままに生きる姿が描かれます。
10. 入鄽垂手(にってんすいしゅ)

- 悟りを得たとしても、その境地に留まっているだけでは無意味ということを表しています。再び俗世の中に入り、人々と共に生き、人々に安らぎを与え、慈悲と智慧をもって導くことこそが究極の目的だということを表しています。
最後の段階では、修行を完成させた人がふたたび世俗の中に戻り、見かけは普通の人として生きます。修行や悟りの姿を見せびらかすことなく、人々と自然に関わりながら、仏法を伝えていきます。
目次
- オフビートカウント理論
- はじめに
- グルーヴ四原則とは
- 何故日本人は縦乗りなのか
強拍が先か弱拍が先か - 音韻学的音楽分析
- 日本人への手紙
分裂拍 と孤立拍 韻律 とは多層弱拍基軸律動 - 多次元ディヴィジョン空間
- 発音よりもリズムの正確さ
- 世界は3⁻ⁿ拍子で出来ている
- 3⁻ⁿグルーヴと2⁻ⁿグルーヴ
- 分散グルーヴ理論
- 弱拍天動説と強拍地動説
- オフビートカウント入門
- リズム認識型とリズム感
- オフビートカウントで英語リスニングを極める
- 日本人の為のエチュード
- 英語の正しい発音法
- オフビートカウントの正しい発音
- 多層弱拍先行ポリリズム
- リズムニュアンスを形づくる要素
- 縦乗りが起こるメカニズム
- 縦乗りと動きの認識
- 縦乗りがもたらす心理的問題
- リズム道入門の御案内
- リズム道とは